2025年3月27日
第18回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 受賞記念講演
奈倉 有里
詩人アレクサンドル・ブロークは、詩を書き始めた思春期のころから晩年まで、ほとんど毎日、溢れるように詩を綴った詩人でした。しかしそんなブロークが、長期間詩を書けなくなった時期が人生に二度あります。一度目は、日露戦争のとき。二度目は、第一次世界大戦のときです。
日露戦争が勃発したとき、ロシアで真っ先に、自分はロシア政府にも日本政府にも与しない、この戦争そのものに反対する、という声明をだしたのはレフ・トルストイでした。この当時、「ロシアには二人の皇帝がいる、一人はニコライ二世で、一人はトルストイだ」と言われたほど発言力のあったトルストイの言葉には、のちに、日本の作家や詩人も含め、世界の数多くの作家や思想家が共鳴しています。
ブロークは当時ロシアではすでに人気のある詩人でしたが、もちろんトルストイほどの世界的な影響力はありません。
1904年4月のブロークの日記には、「僕は弱く、無能で、無力だ」とあり、さらに5月7日には「ああ、ずいぶん詩を書いていない。どうしたら終わるのか。心は暗い。苦しい」とあります。そののち、5月28日にようやく書かれた詩は、『戦争』という詩でした。
やはり 勃発した 鉄の足元で
血にまみれた訃報が 悲鳴をあげる
山に 谷に 野営地に
復讐が 剛毛を 渦巻かせる
次にブロークが詩を書けなくなったのは、第一次世界大戦のときでした。
このときブロークは、1916年の7月に実際に軍に召集され、ベラルーシ南部の平原に赴くことになります。前線に送られることは避けられましたが、ブロークは後方部隊で塹壕を掘る生活をしています。母親への手紙では、自分たちがしていることの無意味さを語り、夜になると大熊座や木星をはじめとして多くの星が見える様子を詳細に書き綴り、「今日はかなり長い塹壕を掘った」、「もし戦争が終わったら、きっと子供たちが面白がってこの塹壕で遊ぶだろう」と書いています。その後、10月の一時的な帰還を経て再度現地へ戻ると、以前にも書かれていた「退屈だ」「さみしい」という言葉はさらに増え、11月には「ここでの生活は相変わらずばかげている」、「夏よりも喧嘩が増え、暮らしづらくなった」とあります。
このころから、ブロークの創作人生史上最も長い沈黙が訪れます。革命後に物語詩『十二』を書くまでの期間、なにも書かなくなるのです。
このとき書けなくなったのは詩だけではなく、日記と手紙以外のすべての言葉でした。1916年9月、レオニード・アンドレーエフから「新聞になにか書いてくれないか」と持ちかけられても、「僕のなかのあらゆる言葉が沈黙している」と答えて断っています。アンドレーエフ宛の書簡には、「戦争が進むごとに、なにが起こっているのか、すべてはどこへ向かっているのか、どんどんわからなくなる」と書かれています。
おそらくいまの世界情勢を前に、このときのブロークと同じように、気力を内側から奪われるような気持ちでいる人は、たくさんいるのだと思います。
そのことは、現状の悲惨さを物語ってもいますが、同時に希望をも物語っています。なぜならそれは、いま大きな声で響き渡っている権力者の声、戦争を推し進めようとする者の声だけがすべてではない、まだ文字になっていない声がどこかに必ずある、ということでもあるからです。リュドミラ・ウリツカヤも、いま起きていることが文学作品に描かれるようになるまでには、まだしばらくの時間が必要だろうと述べています。
戦争が終わったら──それらの声を拾い、集め、異なる言語を母語とする人々がふたたび集える文化空間を作ることが、私たち人文学に従事するすべての人間の仕事になるのだと思います。
そのときまで、これまで、傷つけあった人類の心がどのように再生し、共に歩めるようになってきたのかを、あらためて学んでおくことは、私たちの底力になります。
文化とは、根本的なことをいうならば、人と人がわかりあうための様式のことです。それは、上から押しつけられうるものでも、どこかに正しい雛形があるものでもなく、これまでもこれからも、私たち自身が日々作り、探り、編みだしていくものです。いかなる力によってその理解が破壊されようとしても、対立を突き抜けてふたたび理解へと進む言葉や、力がなくなってしまいそうなときに頼れる言葉は、必ずどこかに存在しています。
これからも、戦争を推し進める言説に絡めとられない言葉を探し、翻訳し、届けることができたらと思っています。そして今日ここにいらしてくれた方々や、同じ思いの人とともに、文化を背負って、一緒に脱走していけたらたいへん嬉しいです。